暗闇は真実の光に満ちる −『歎異抄』に学んで−   高 史明

第2章

  思えば二十世紀は、戦争と革命の世紀だった。多くの人が非業の死を遂げている。第二次世界大戦に限ってみても、世界中で六千五百万人からの戦没者があったのである。小さな町の夥しい戦没者の数の裏側には、さらなる戦没者の目に見えない墓標が続いているのである。中国人が死に、アメリカ人が死んだ。朝鮮人も死に、フイリッピンや東南アジアの各地でも、多くの死者が出ている。そして、近代文明発祥の地であるヨーロッパでは、四千万人に近い人が亡くなっているのではなかったか。その人々の縁者は、二十世紀の終わりに何を思ったことであろう。

 私は静まり返った城址に建つ慰霊碑の前に立ったとき、改めて二十一世紀の平和を心の底から願わずにはおれなかった。きっと世界中の人々が、二十世紀の終わりには、同じ願いを強く抱いたのではなかったろうか。恐ろしい戦争は、二度とあってはならないのである。 だが、私たちはいま、何処にいるのであろう。

 二十一世紀の幕開けを迎えた年の九月十一日、アメリカに同時多発テロが発生した。それ以降、世界は改めて、自らの足下の底知れない地獄を見つめることになっていると言えまいか。アフガニスタンへの報復爆撃があった。それに続いて、ブッシュ大統領の「ならず者国家」の発言があり、また、核兵器の使用を含む先制攻撃の可能性が仄めかされることになっているのだ。しかも、いま世界経済は、極めて深い不安にさらされている。繰り返し問わざるを得ない。私たちはいま、何処にいるのか。

  同時多発テロの発生と同時にブッシュ大統領は、新しい戦争の開始を声明した。アフガン爆撃は、その声明にそって開始されたものである。アルカイダはほぼ全滅した。しかし、世界の緊張は、いまなお深まりつづけているのではないか。私たちは、ブサッシュ大統領の声明通りの新しい戦争状況下にあるのである。だが、その戦争はいったい何と何の戦いであるのか。

 ブッシュ大統領は、この戦いを善と悪との戦いと位置づけていた。その場合の悪とは、いうまでもなくテロとそれを支援する勢力にほかならない。しかし、テロの悪に対抗して、新しい戦争の開始を宣言した善とは、何であろう。同時多発テロと、それに対応するアメリカの姿勢を目の当たりにしてゆくことになったとき、私は改めて、人間存在を根こそぎに考えないではおれなかった。仏さまは何も言わない。しかし、私たち生者はいま、無量の仏さまの深い沈黙にまっすぐに見つめられているのではなかろうか。

  思えば、ブッシュ大統領の声明に現れた思想は、彼一人のものではなかつた。近代の人間中心の文明は、まさに善と悪、有と無の二項対立の眼差しを根っこにしているのである。例えば、近代文明の始祖とも見なされているデカルトの視点を思い出してみよう。

 彼は「理性をよく導き、もろもろの学問において真理を求めるための方法」を追究する『方法序説』に述べていた。彼の見解によれば、理性とは「われわれ自身を、いわば自然の主人かつ所有者たらしめることができる」力であって、その働きは「労せずして地上世界のもろもろの果実と、あらゆる便宜とを人々に楽しませるところの、無数の技術の発明という点で望ましいばかりではなく、また主として、明らかにこの世の第一の善であり、かつあらゆる他の善の基礎であるところの健康の保持、という点からも望ましいのである」と。

  ブッシュ大統領は、まさしくこのデカルトと同じ地平に立っているのである。いや、彼だけではない。現代人は、まさにこの理性的な人間中心主義を自らの拠り所としていると言っていいのである。思えば、デカルトは、その思想によって人間の世界に理性という新しい地平を開いたのであった。人間の世界に近代科学が生まれたのも、この理性の土壌の上のことである。理性は、それまでは領主の土地の付属物とみなされていた人間に平等の基礎を与え、また新たしい科学・技術を生んで、人間世界に物質的な豊かさを保障したのであった。人間はいま、まさにデカルトの予言した通り、自然の主人公となり、その繁栄を享受することになっている。

 だが、私たちはいま、その繁栄の一方でデカルトの時代には、想像もできなかった困難に当面しているのではなかろうか。人間中心の繁栄は、地獄と抱き合わせだったのである。世界は文明と野蛮に引き裂かれた。カントがこの状況下の文明人のあり様を批判して、『永遠平和のために』を書いていたことが思い起こされる。彼の眼差しによると、文明人にはその圏外に置かれた人々が、同じ人間に見えなかったと言う。なんという理性であろう。

 戦争と革命の二十世紀とは、この人間中心の知恵に潜む矛盾の爆発ではなかったか。いわゆる文明人は、圧倒的多数の人々を野蛮と見なす一方で、その理性の限りを尽くして互いに世界の争奪戦を繰り広げたのである。そして、何が登場してくることになったか。 第二次世界大戦の末期には、核爆弾が地獄の業火を吹き上げた。あの核爆弾こそは、まさに人間中心の知恵の結晶だったと言っていい。ブッシュ大統領は、テロを戦争行為と位置づけるともに新しい戦争の開始を宣言していたが、いわゆる新しい戦争はすでに人類の頭上に暗雲となって広がっていたのである。

 絶対戦争という言葉があった。十九世紀の戦争を深く見つめてきたクラウゼィッツは、従来型の戦争が戦争そのものを自己目的化してゆく絶対戦争になると予言していた。核爆弾は、まさにその絶対戦争の象徴だったと言えまいか。その業火の下には、軍人も民間人もないのである。敵も味方もないと言っていい。地球がまるごと破壊されるのである。いや、その戦争以前にして、人間の文明はいま、自らのいちの古里の地球を丸ごと壊しかけているのではないか。現代人は絶対破壊兵器を手にする一方、CO2の削減交渉ひとつもまとめられないのである。

 

  (『暗闇は真実の光に満ちる −『歎異抄』に学んで−』)