深く真実のいのちを見つめる その2      高史明

第3章

 思えば、二〇世紀の二度にわたる世界大戦を根っこには、いわゆる国民国家の登場があります。さらにまた遡れば、人間がその理性に目覚め、理性中心に開くことになった近代という時代があります。ここでいま一歩深く私たちの現代を、その近代の初めから考えて見たいと思います。

  アジアがヨーロッパと出会うのは、いわゆる大航海時代以降からでした。生者中心の知恵は、この新しい状況を、人間の歴史の進歩として全的に評価しますが、それだけでいいのか。そこには進歩とともに人間の知恵の無明も、横たわっていなかったか。人間の歴史が、世界史となってからのアジアとヨーロッパの出会いには、もっと深く見つめていい人間の闇が黒々と横たわっていると言っていいのです。

  アジアで言えば、その出会いの初めは、まずは天主教の人たちとの交流でした。真摯な人々が、キリスト教の平等思想や救世主思想を持って、訪れてきたわけです。貧しいアジアの人々の多くが、その言葉に深く耳を傾けることになっています。一方、アジアの専制的な支配者は、この人々を恐れたのでした。その思想は、アジアの専制的な支配にとって異質だったわけです。さまざまな衝突が起きています。しかし、その衝突は、決して文明・文化の違いから起きただけではないとも考えられます。

 一九世紀になると、先駆的来訪者の後から、商船や軍艦なども来航してくるようになったのでした。開港が武力を背景に求められています。しかも、その新しい来航者たちの中には、アヘンを売りつけてくる者もいたのでした。 とりわけ、すでにインドを支配していたイギリスの来航者たちが、中国でとった振る舞いは傍若無人でした。彼らは中国にアヘンを持ち込む一方で、銀を持ち出すことによって、中国社会に深刻な危機をもたらしたわけです。この葛藤から、一八四〇年には、ついに中国とイギリスの間に戦争が起きています。いまに思えば、この戦争こそは、まさに別の形の政治だったと言えましよう。イギリスは中国に対して、政治の別のかたちとしての戦争を押し付けたわけです。

  人間の歴史の近代とは、人間中心の時代の到来であると同時に、戦争という形を取った政治が、世界中に暴風雨のように吹き荒れた時代だったとも言えましょう。世界のあらゆる地域が、この暴風雨に巻き込まれています。言わば、この時期、文明は世界中に戦争と支配という別の形の政治を押し付けたわけです。

 朝鮮も、このとき同じ暴風雨に襲われています。一八六六年のアメリカ商船の来航につづいて、フランスやドイツの軍艦なども来航してくるようになっている。それにつれて天主教への弾圧が強まる一方、いわゆる列強の朝鮮への圧力もまた露骨になっています。

  もちろん日本もまた、この時期この暴風雨の圏外にいることはできませんでした。黒船来航と呼ばれているペリーの浦賀来航は、一八五三年ではなかったでしょうか。それ以降、日本の内外では、さまざまな事件が続発しています。例えば、一八六四年には、いわゆる馬関戦争が起きています。当時のヨーロッパ列強の連合艦隊が、攘夷派の長州藩の横暴を懲らしめるのだということで、あの関門海峡にずらっと軍艦を並べたといいますから、事態はまさに戦争だったと言えましょう。

  下関で生まれた私は、子どものときよく聞いたものでした。高杉晋作の軍隊が、下関に砲台を築き、海峡の軍艦に一斉砲撃を加えたと言います。他国の玄関先に軍艦を並べるとは何事かということでしょう。しかし、高杉晋作が作った下関砲台の砲弾は、沖合の軍艦に届かなかったと言われていました。本当かどうか、高杉晋作が作った砲台から打ち出される砲弾は、砲丸投げの鉄ような塊で、ただ重く、あの狭い海峡の中に並んでいる軍艦まで届かなかったと言うのです。

  一方、海峡に並んだ列強の軍艦の砲弾は、先が尖った火薬のいっぱい詰まった砲弾だったようです。下関の砲台は、その艦砲射撃を浴びて、一瞬にして壊滅したと言われています。しかも、それにつづいて海兵隊の上陸があった。下関は、その海兵隊によって一時占拠されることにもなったと言われています。この戦争もまた、別の形で展開された政治だったと言えましょう。

 高杉晋作らが、この戦争に受けた強い衝撃が想像されます。彼らの尊皇攘夷のスローガンが、開国と倒幕に変わったのは、これ以降ではなかったでしょうか。 もちろん、幕府の要人たちにとっても、馬関戦争は深刻な出来事でした。馬関戦争の前には、すでに鹿児島湾での薩英戦争も起きていたわけです。しかも、彼らの間には、すでにアヘン戦争の行方に対する深い不安もあったわけです。

 例えば、明治維新で中心的な役割を果たした坂本竜馬や高杉晋作、勝海舟や西郷隆盛らに大きな思想的影響を与えた佐久間象山は、アヘン戦争の去就を心配して、次のような手紙を書いています。

  「…時に清国。英吉利との戦争の様子は、近ごろ御伝え聞き候や。慥に承り候とも申しかね候ことにて候へども。近来の風聞にては、実に容易ならぬ事に被存候――」と。

 しかも、この時期、徳川幕府は、倒幕・開国をスローガンにし始めた攘夷派の圧力だけでなく、相次ぐ世直し一揆によっても、内側から強い圧力を受けていたのでした。馬関戦争の圧力は、幕府にとっても止めの一撃だったのではなかったか。徳川幕府にとっては、ことここに及んではもはや「大政奉還」の他に取るべき手はなかったと考えていいのです。こうして明治革命が実現されたのでした。

 この意味からすると、明治革命とは、政治の延長としての戦争の危機を、逆手にとったレーニンのロシア革命の先駆的革命だったとも言えましょう。 実際、そのときの危機がいかに深刻なものであったかは、二五〇年もつづいた幕藩体制の中心の江戸城が、勝海舟と西郷隆盛の談判によって、無血で明け渡されたというからも、容易に想像できるというものです。江戸城の攻防を巡って、幕府の軍隊と天皇を担ぎ出した薩長の連合軍が、あの時期東京で大戦争を繰り広げるようなことをしていたら、いわゆる列強はその内部分裂に切り込んで、日本にいっそう深い傷を負わせることになっていたことでしょう。勝と西郷は、この厳しい状況を背負って、談判に臨んでいたわけです。

 明治初年の岩倉米欧使節団の随員だった久米邦武は、この革命を「是殆ド天為ナリ、人為ニアラズ」と述べているようですが、それはまた当時の人々の実感だったのではないかと思われます。

  ともあれこうして、明治革命は実現されたのでした。内圧と外圧が、相呼応して新しい地平を開いたわけです。それ故にまた、この成功は、アジアの国々を初め、世界の多くの人々によって賞賛されています。いわゆる列強の脅威に曝されていた世界にとって、日本に起きた出来事は、まさに賞賛と羨望の的だったわけです。

  しかし、いままさに深く考えられていいのは、それからの百年に二度の世界大戦があったと言うことです。この戦争は何か。文明の世界化とは、それを負の面から見ると、戦争の世界化でもあったのでした。しかも、日本はその二度目の大戦のとき、恐ろしい敗北を喫している。この戦争は、何故であるのか。日本の明治における成功は、同時に人間の生者中心の知恵に潜む負の遺産をも受け継ぐことでもあった、と考えていいのではないでしょうか。そうです、人間の知恵とは、明と暗が一枚重ねになっているのでした。

 戦争が政治の別の形となってくるのも、まさに人間の知恵に潜むこの闇の現れなのでありましょう。明治維新とは、この闇とともにある人間の知恵とともに開かれたわけです。そうであれば、その文明開化は、明であるとともに暗を深く潜めていたと見てよいのです。いわゆる文明開化とは何であるのか。

(『深く真実のいのちを見つめる』 その2)