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深く真実のいのちを見つめる その2 高史明 第2章 恐ろしい世界大戦の犠牲者が、いま空の彼方から、海の底から、地の底から、私たちに願っているのは、何でありましよう。まずは仏さまのお声を、虚心に聞いて見たいと思います。 第二次世界大戦が終わる少し前の八月六日、広島に原爆が落とされました。その広島の原爆にかかわって生まれた詩があります。表題は「死」。広島の原爆詩人・峠三吉が、その原爆詩集の編者です。その一部を読んでみます。 白く煮えた首 もうひとつ、「炎」詩です。 太陽をおしのけた まことに恐ろしい詩です。 ところで、峠三吉はまた、「にんげんをかえせ」という詩を書いています。その詩も読んで見ましょう。 ちちをかえせ 広島の劫火は、何もかも焼き尽くしたのでありましょう。峠三吉が、アメリカの占領軍の厳しい追求を受けながら、どうしても叫ばずにおれなかったのがこの詩です。父がいなくなったのです。母もいなくなり、年寄りもいなくなり、子どももいなくなったのです。「にんげげんをかえせ!」とは、なんと恐ろしい叫び声でありましよう。恐ろしい詩です。 私たちの今日の豊かさは、この焦土の上に築かれているのです。天にも届きそうなビルが林立していますが、その地下には夥しい仏さまがおられるのです。私たちは、その仏さまを忘れて、自分たちの幸せを謳歌しているのです。まるであの戦争はなかったかのようです。 しかし、私にはいまも、この繁栄の向こうに何処までも続く真っ黒い焼け野原が透けて見えます。その焼け野原に立つ仏さまの声のない声が聞こえます。仏さまは、いままさに「にんげんをかえせ!」と叫ばれているのです。人間の時代であるはずなのに人間がいない。戦争のときだけはありません。繁栄の今日において、いよいよ人間が見えなくなりつつある。それが今日の不安ではないのか。 人間とは、いかなる存在なのでありましょう。人間の戦争とは、何であるのか。省みますと、人間は何時の時代にも戦争を繰り返しているのでした。戦争のなかった時代はないと言っていい。それ故でありましょう、戦争こそは、進歩の炎と言う見方もあるようです。しかし、もはやそんなことが言えた時代は終わったのではないか。 一九世紀に活躍したプロイセンの軍人クラウゼヴィッツの『戦争論』が思い返されます。彼はナポレオンの国民国家の誕生とともに激化してきたヨーロッパの諸国家間の戦争を、よくよく見つめた人でした。そして彼は、戦争とは別の手段による政治の延長という見解を明らかにしています。確かに、近代の国家間の戦争は、それまでの王侯領主の戦争と違います。この時代の戦争は、まさに国民国家間の政治的・経済的な争いの延長になっています。 また、二〇世紀初頭のロシア革命で中心的な役割を果たしたレーニンも、戦争とは政治の延長であるという戦争観の持ち主でした。彼はこの戦争観の導くところに従って、ロシア革命で主導的な役割を果たしたと言っていいのです。第一次世界大戦とともに深まったロシアの危機は、まさしくロシアが当面した国内的国際的な政治の危機と重なっていたのでした。ロシア革命は、まさしく戦争の危機を政治の危機によって捉え返した革命だったと言えます。きっとレーニンは、何処かでクラウゼヴィッツを学んでいたのではないでしょうか。 だが、第二次世界大戦の末期に登場した核兵器は、それまでの戦争観のすべてを過去のものにしていると考えられます。クラウゼヴィッツには、すでに「絶対的戦争」という観念があったのでした。この絶対戦争では、いわゆる前線と銃後の境はなくなると言います。あらゆる社会構成員のすべてが、戦争に駆り立てられるのです。総力戦という言葉があります。総力戦は、男や女、子どもや年寄りという分け隔てをしません。全員を戦争に駆り立てるのです。第二次世界大戦は、まさにその総力戦だった。あらゆる場所が、人と人の殺し合いの場となったわけです。そこではもはや、戦争目的すら消えていたと考えられます。勝つか、負けるかもありません。ただ殺すために殺すのです。恐ろしい殺しだけが、引き返すことのできない自己目的となるのです。 戦場でもまた、それから遠く離れているかのように見える町や村でもー。 そして、二〇世紀の二度目のその総力戦では、ついに核兵器が出現してきたのでした。核爆弾こそは、まさに絶対戦争の究極兵器です。この爆弾は、一瞬にしてあの二〇万都市のまるごとを、地獄の劫火に飲み込んだのでした。峠三吉の「にんげんをかえせ!」は、まさに恐ろしい予言です。人間の総力戦は、人間そのものを絶滅へと駆り立てるのです。現代人は、その劫火を自らの手中に握ることになっているのです。これが繁栄であるのか。 二〇世紀が終点に差し掛かったいまこそ、私たちはこの百年を、人間存在の根っこに重ねて省みていいと思います。「にんげんをかえせ」の叫び声は何であるのか。真摯に聞いていいのです。戦争を政治の延長と見る眼差しは、まさに生者中心の眼差しにほかなりません。もし、戦争が政治の延長であるとするなら、問われていいのは、まさにその政治とは何かです。戦争をする人間は何か。絶対戦争にまで至りついた私たち生者の知恵とは、いったい何であるのかと言うことです。 いまにして近代の総体が、その根っこから思い返されます。人間の時代は、どうして絶対戦争に至りつくことになったのでありましょう。思えば、人間中心の時代は、人間がその理性を自覚することから開かれてきたのでした。しかしいまや、その理性が問われていると思います。理性とは何か。理性とは、言わば生者が、自分中心にすべてを対象化して、考え尽くそうとする人間中心の知恵だと言えましょう。 現代とは、その知恵によって開拓されてきたのでした。その功績は、まことに偉大です。しかし、生者中心の知恵だけが、人間の知恵でしょうか。死者には知恵はないのか。生者の知恵は、死者の智慧が重ねられて、初めて本物になるのではないか。 人間の歴史は、生者だけでなく、死者の参加があって初めて、その全体像を現すと言えます。歴史だけではない、生者個々人の日々にもまた、死者が常に寄り添っているのです。 人間の意識は、眼に見えない死者に支えられていると言っていいのです。生者の対象的意識だけが、意識なのではない。にもかかわらず、近代人は対象的に働く理性の明晰さに幻惑されて、死者を対象化できないものとして、人間の世界から完全に葬り去ったのでした。死者はいないものとされ、死体だけが存在することになっているわけです。しかし、死者を見失うことによって、返って自ら死の根源的不安の虜になっているのではないか。たとえ死者を思うことがあったとしても、常に生者中心であることから、死者に見つめられている自分に気付かない。その現れが、死者に対してご冥福を祈りますという言葉になっているのでありましょう。冥福とは、あの世のことです。現代人の知恵からすると、あの世とは対象化できない世界です。現代人は、あの世を信じていないと言っていい。にもかかわらず、儀礼的に冥福を祈りますと言うのです。生者中心の知恵は、まさに虚仮不実です。 峠三吉の「にんげんをかえせ」の叫びは、まさにいま、その私たちのあり様を根こそぎ映し出す鏡です。生者の方こそが、死者によって見つめられている。私たちはいま、その死者の眼差しに合掌して、あの大戦の夥しい死者の願いを聞くべきでありましよう。
(『深く真実のいのちを見つめる』 その2) |